元旦礼拝「見よ、私は新しいことを」

森田恭一郎牧師

(イザヤ43・19-21 ルカ4・19-21)

「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている」。会堂の横のその桜の木、一二月の内からもう芽が出ていたようです。後で是非ご覧下さい。今年の春にはきれいな花を咲かしてくれることでしょう…。昨年芽生えてこそ今年花が咲く。「芽生えている」。今日あらためて味わいたい言葉です。もっともイザヤは自然現象のことを語っているのではない。歴史の出来事になるべきことが芽生えている。自然になることではなく、神様が意識して自覚的に為さることです。

さて、主イエスは、お育ちになったナザレに来られ、安息日に会堂に入り、聖書を朗読します。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まり、イザヤ書六一章の所をお読みになりました。恐らく、この聖句は折に触れていつも読まれ会衆もよく知っていたことでしょう。この日主イエスはこの箇所をお読みになり、巻物を巻き係の者に返して席に座られます。でもその時、何かがいつもと異なっていた。主イエスがお読みになったその時、会衆は何かに気付き、自覚した。だから会堂にいる全ての人が主イエスに目を注いだ。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と話し始められた。そして「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と話し始められました。

それまで巻物に記されてあっただけの聖書の言葉を「実現した」ものとしてお語りになりました。実際に「主の恵みの年を告げ」て下さいました。思えば、主イエスを証しする聖書です。それを主イエスご自身がお読みなる時、それは実現し、実現したものとなります。終末の完成をご存知の主イエスにすれば、それは既に実現されたものです。

教会で聖書が、そのように新しく説き明かされ聞かれていくとき、新しい事が起こり始めます。その新しい事というのは、神様がお一人で何か遠くで新しい事を為さっているというのではない。イザヤ書四三章二一節にこうあります。「私はこの民を私のために造った。彼らは私の栄誉を語らねばならない」。み言葉を通して、神様の栄誉が皆さんに迫って来て、皆さんと出会う。また栄誉が迫って来た皆さん同士として皆さんがお互いに出会う。また皆さんが他の人と関わって教会の外でと言うのか教会の領域を広げて出会う。それらの出会いに於いて、神様の栄誉が広がっていく。そこから芽生えていることが新しく現実となって始まっていく。そこに主の御心が成っていく。

昨日、幼児洗礼式を執り行いました。それに先立って牧師の私と親御さんの出会いがあり、その背後に聖霊なる神様と親御さんの出会いがあり、他の時ではなく昨日、洗礼式に至りました。主の御心が成った結果です。そして恐らく、親御さんの中に芽生えていたのでしょう。神様の側の新しい事が親御さんの中に芽生えていたのです。

皆さんは、聖霊なる神様からのどのような芽吹きにお気付きですか。皆さんのお体と生活、皆さんが形づくるコミュニティーや人生の中に神様からの新しい事が芽生え芽吹いているかも…とお気づきになっていますか。過ぐる一年間を思い起こし見出してみて下さい。昔は良かったなぁとただ昔のことを思い起こすのではありません。神様からの芽吹きを見出します。それが救済史の歴史意識になり、今年に繋がって来ます。そしてこの救済史の歴史意識、芽吹きの気づきや自覚が今年を造り上げて行きます。気付きなしにはせっかくの芽を摘んでしまうことになります。芽吹きに気付き自覚することから始まります。そして芽吹いた芽を膨らませ、あるいは花を咲かせて行きます。

神様は「見よ、新しいことを私は行う」とお語りです。そしてこの教会に皆さんが関わってこられ、繋がって来られたことによってこそ今、改めて気が付いた皆さん各々の中に生じて来た神様の芽吹き、それは何であり、そして皆さんの各々の今年の人生において神様の為さそうとしておられる「新しいこと」とは何でしょうか。「見よ」と私たちに促しています。「新しいこと」は皆さんの中にも教会の中にも芽生えているからです。

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