「全てのものも、皆も、家族も、私も」

森田恭一郎牧師

(創世記 9・8-17、ローマ 11・36)

一二月一〇日の礼拝で、神様が結ばれたアブラハム契約について語りました。契約の内容は「私は、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。私は、あなたが滞在しているこのカナンの全ての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える」(創世記一七・七―八)。別の言い方では「あなた方は私の民となる」。唯一真の神様がこんな罪人の神となって下さり、こんな罪人の私たちが唯一真の神の民とされる。思えば何と畏れ多くもまた幸いなことでしょう。これがアブラハム契約です。

そして今日は、ノア契約の話です。ノア契約は「私は、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいる全ての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地の全ての獣など、箱舟から出た全てのもののみならず、地の全ての獣と契約を立てる。私があなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものが悉く滅ぼされることはなく、洪水が起こって血を滅ぼすことも決してない」(創世記八・九―一一)という契約です。アブラハム契約に比べ、救いの範囲が広い。

救済史のスケッチをご覧下さい。キリスト教の歴史観、それは救済史です。スケッチの右側の横倒しの三角形の底辺部分、アダム、妻エバと二人ですが人類全体の代表者です。更に右側に「神様の永遠の意思決定」があります。エフェソ書一章四節、「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました…」。神が私たちを愛し、選び、私たちがほめたたえるようになる。天地創造の前に神様は、私たち一人ひとりの存在を既に意思決定の中に見出しておらる。そしてその実現のために天地をお造りになりました。また「天地創造の前に」の意味は、意思決定が、私たちのこの世に生まれてから後の性格の善し悪し、成績や能力の善し悪し、信仰の有無さえも含めて何にも左右されないということです。私たちが生まれて来たこと自体が、この永遠の意思決定の結果です。救済史は そこから始まってキリストに向かいます。

今、祈祷会で創世記のヨセフ物語を読んでいますが、ある方がある気付きを語って来られました。マタイ福音書の「イエス・キリストの系図」にヨセフが載っていないと。成る程、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってベレツとゼラを…」と続く。ユダとその兄弟たちの中にヨセフも含まれているのですが、ヨセフはマナセをもうけ…とは続いて行かない。キリストに向かうこの系図は、系図に載らない人たちを排除しながらキリストに収斂していきます。

アダム以降についても、ノアの時代まで人口は増えているはずなのですが、ノアの時にノアと家族以外は滅ぼされます。創世記六章五節以下で「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『私は人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も』」。神様は洪水を起こして生けるもの全てを滅ぼされ、そうやって、アダムの子孫の内ノアとその家族だけが残り他は排除されます。そして次にはノアの子孫の中から神様はアブラハムに対して契約を結ばれました。そしてこの契約によってアブラハムに繋がらない他のノアの子孫は排除され、そうやってキリストに向かって収斂していきます。

ですが、キリストに繋がる人はいません。「誰も彼も背き去った。皆共に汚れている。善を行う者はいない。一人もいない」(詩編一四・三)。

マタイの系図もよく見ると「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ一・一六)。ヨセフはイエスをもうけたとは記しません。ヨセフから直接イエスに繋がらない。キリストに向かって収斂してヨセフまで来たのに最後、キリストに繋がらない。断絶している。同じことはルカ福音書三章に記される系図も同じ。方向は反対にキリストから過去へと遡っていきますが、ここでは「イエスはヨセフの子と思われていた」と意味深長な言い回しで、やはりイエスから祖先へと繋がらない。右側の三角形はキリストを目指しつつ、あるいはキリストから遡りながら、祖先とキリストは直接していない。

ただアブラハムから始まるマタイの系図に比べますと、ルカの系図は、アダムまで遡り、最後は創造主である神に至ります。アブラハム契約に含まれていなかったノアの子孫もアダムの子孫も入ります。その違いはマタイ福音書がユダヤ教徒のイスラエルの民を読者に想定してアブラハムからで足りていたのに対し、ルカ福音書は異邦人全体を読者に想定して異邦人をも含むアダムからの子孫を視野に入れたということでしょう。

そして左側の三角形の方に目を転じると、今度は拡がって行きます。たったお一人のキリストから、十二使徒へ、最初の聖霊降臨の時には三千人ほどが仲間に加わって行きます。今日、二十二億人を超える人がキリスト教徒です。それ以前のキリスト教徒を加えるとどれ程の人数になることでしょう。そして最後は全人類へと拡がります。パウロは言います。「全てのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマ一一・三六)。実は「全てのもの」は中性名詞で、全ての者になっていませんから、人だけでなく被造物全体が神に向かっていると言っている訳です。このようにキリストから始まる系図は左の全人類、全被造物へと拡がって行きます。そのようにして、天地創造前の永遠の意思決定が、最後には全て成就します。

さて今日は、この後幼児洗礼式を執行します。幼児本人が信じていないのに洗礼を授ける根拠は何か。それは親が信者であることを前提としていますのでこの幼児もアブラハムの子である、アブラハム契約の中に含まれていると信じることにあります。Ⅰコリント七章一三節以下、「また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻の故に聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫の故に聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなた方の子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」。この聖句が幼児洗礼の根拠の一つです。幼児洗礼を受ける前はこのスケッチで言いますと「聖なる者たち」の所です。洗礼を受けてキリスト教徒の所になります。喜ばしいことです。

それで今日は、パウロのこの言葉から更に考えたいことがあります。キリスト教徒の下に生まれた幼児が、あるいはキリスト教徒と結婚した配偶者がそれだけで聖なる者であるなら、もっと広げて考え得るのではないかということです。アブラハム契約の下ではキリスト教徒との家族関係が不可欠ですが、ノア契約の下で考えてみるとどうでしょうか。ノア契約は「私は、あなたたちと、そして後に続く子孫と、のみならず地の全ての獣と、契約を立てる」ものです。ノアたちとその子孫、それはアブラハムとその子孫より広い。しかも悔い改めを前提としていません。悔い改めたから救うという話ではない。何故なら「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは幼い時から悪いのだ」(八・二一)、皆、悪い、罪人なんです。だからそれを根拠に滅ぼしていたらきりがない。誰も救われないことになる。でも救われて神をほめたたえるようになるのが創造の目的です。

キリスト教学校の教務教師のある先生がこう仰いました。「私の関わる生徒は救いの中にあると信じて、私は接します」。その生徒たちは必ずしも、教会に行ったり信仰を告白している訳ではない。家族が信徒だという事でもない。それでも救いの中にあると信じる。そうでなければ「あなたはこのままでは救われない」と脅かすような思いで相手と接することになる。それでは生徒との健全な人間関係は築けません。それは広く罪人たちと関わって行かれたキリストの御心でもない。

これを肯定するなら、私たちキリスト教徒がこの自覚の下に関わる相手の人は皆、聖なる者です。例えば、教会に来て下さる方たちは、家族にキリスト教徒がいなくても私たちと関わるのですから聖なる者たちです。私たちが日常生活で接する人たちは、私たちにとっては聖なる人達です。私たちは、その自覚を以て関り、この信仰を以てその人のことを執り成していく。聖なる人達を広げて考えることは、ノア契約を結んだ神様の御心に適うものです。そして神様の永遠の意思決定はもっと広い。万民・万物の礼拝、それが終末における救いの完成だからです。これは私たちが決めることではありません。その限りにおいて最終的には神様にお委ねすることです。が、聖書の言葉を根拠にそう信じます。そう信じて、伸び伸びと人々と関わって伝道します。

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