聖夜賛美礼拝説教「隠れたる神」

森田恭一郎牧師

(ルカ福音書 1・26~2・20)

マリアは「ベツレヘムにいる内に、月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」ました。先に天使が告げた通りに、聖霊によって神の御子を宿し、この夜、出産し、神の御子の母となりました。この時マリアと、付き添うヨセフは知りました。ここに神の御子、救い主がお生まれになられてこの世に現れた。そして同時に、神の御子は、乳飲み子として生まれて来たこのイエスさまの中に隠れておられるということ、御子がこの世に現れたが隠れておられることを知りました。

天使はマリアにお告げになりました。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる…」。マリアは戸惑いつつも、夢を膨らませたことでしょう。神様がダビデの王座を下さるのなら、イエス様は王子様。王子様ならダビデのエルサレム宮殿で産むことになるのかも…。

マリアはまた天使のお告げを心に留めながら思ったかもしれません。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。もしかすると光り輝くように生まれてくるのかもしれない。だって、神の御子がお生まれになるのだから…。

およそ十ヶ月のときを過ごしました。人口調査のためベツレヘムに向かうことに…。そこはダビデの生まれたダビデの町、そのベツレヘムにやっと着いた頃、出産のときが迫ってきました。「宮殿という訳にはいかないが、宿屋で泊まろう。ダビデの町だし」。ヨセフは言いました。「出産するのだから一番立派なこの宿屋にしよう」。マリアは想いました。「ここならベッドや柔らかなお布団も、暖かい産着も用意してもらえるでしょう。ここがいい、ここがいい」…。ところが既にお客さんが一杯で泊めてもらえず、他の宿屋を捜しましたが、泊めてもらえる宿屋は一つもなくて、そうこうしている内にここはもう街はずれ。日もすっかり落ちて辺りは真っ暗。なのに、出産のときは一層迫ってきます。ふと見ると、そこに馬小屋でしょうか。マリアは想いました。「こんな所で。ここじゃ嫌。こんなはずじゃなかった」。

でもそんなこと言っている猶予もありません。もう立ってもいられません。かろうじて夜露は防げそうです。馬小屋の中にうずくまり、ヨセフも急いで、ベッド…を用意したい所ですが、代わりに家畜が水を飲むのに使う飼い葉桶、柔らかなお布団…を用意したい所ですが、代わりにそこにあった藁を敷き詰めて、それから生まれたら赤ちゃんに産着…を着せたい所ですが、持ち合せたのはただの布でした。

聖書は記します。「彼らがベツレヘムにいる内に、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。生まれて来た赤ちゃんイエス様は、普通の乳飲み子と何ら変わりません。特別に光り輝いていた訳ではありません。そんな夢みたいなことあるはずないねと、馬小屋の現実の中で想いました。それにしてもこんなはずじゃなかった。天使のお告げを信じた私が馬鹿だったのか。天使のお告げの方が夢物語だったのか…。

どの位時間が経ったでしょうか、何かどやどやと人の気配がします。すると「もしや、ここに布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子いませんか~」。ヨセフが応対に出ますと、羊飼いたちです。ヨセフが「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子ならさっき生まれたばかりです」と言うと、羊飼いたちはどれどれと覗き込んで、確かに、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子がここにいるのを見ると、みんな大喜びです。見聞きしたことが全て天使の話した通りだったからです。そして神をあがめ賛美しながら、帰って行きました。

また、静まり返った馬小屋で、マリアは、羊飼いに告げて下さったという天使の言葉を思い巡らしながら、やっぱり本当だったのだ。信じて良かったのだ。信じていこう。そしてこう思い至りました。「この子が本当に神の御子。この馬小屋の乳飲み子に神様が現れ、また隠れておられるのだ。ここで良かった、これで良かった」。

祈り

クリスマスの晩、ご自身の御子をこの世にお遣わしになられた父なる神様。

私たちが、あの乳飲み子のお姿の中に、御子としての神様のお姿を見出すことは、およそ出来ないことです。お姿が隠されているからです。先だってみ告げを受けていたマリアでさえ、羊飼いたちの証し無しには危うく信じられなくなる所でした。でも人となられた神、そこにこそあなたの御心、御業が現れていました。私たちの全てを担われるためでした。神様どうぞ、あなたの御心と御業を、私たちも聖書の言葉を心に留めて信じることが出来ますように。

私たち、出来ることなら「これがいい」と思える人生を歩みたく思います。でも人生、その通りにならずに「これでは嫌だ」となってしまうことがあります。そのような時、そのような時でも出来ることなら「これでもいいのだ」と受けとめられたら何と幸いなことでしょう。せめて願わくば、後から人生を振り返って「これで良かったのだ。御心がそこにあったのだ。自分の人生にあなたが現れ寄り添っておられたのだ」と受け入れることが出来ますように、私たちの人生をあなたのご計画の中に招き導き入れて下さい。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

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