「救い主がお生まれになった」

森田恭一郎牧師

(イザヤ 7・14、ルカ 2・6-7)

救い主が、お生まれになりました。「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった」。母マリアのお腹の中に宿って「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」のでした。イエス様は、そうやって天からやって来られてお生まれになった救い主、神様、神の御子です。天からといっても雲に乗って空の遠くからやって来られたのではなく、そうやってお生まれになりました。

お生まれになったのですから、生まれたその時は、オギャー、オギャー。神様なのに産声を挙げました。お生まれになった時、裸ん坊でした。神様なのに裸ん坊です。寒い冬の夜でした。可愛らしくハクション。神様なのにクシャミをなさいました。お生まれになった時、布にくるんでもらいました。神様なのにお布団ではなく布にくるまれただけです。そこにはベッドもなかったので、家畜が水を飲む時に使っていた飼い葉桶に。神様なのに飼い葉桶でお休みになったのです。ただ、お母さんマリアに抱かれた時、柔らかくて温かくて、思わずニコッと笑いました。神様が微笑んでくれました。

少し大きくなって走り回れるようになった頃、転んでひざっこぞうの怪我をして、痛いようと泣いたかも。神様が痛いようと泣いたんです。

大人になられて公のご生涯を始められてから、故郷の人が口々に言います。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(マルコ六・三)。よく読むと「マリアの息子で」とだけあって、お父さんヨセフの名前はありません。それで既にヨセフは亡くなっていたのではないかと言われています。その時、イエス様は悲しかった。神様なのに悲しみます。

それから、弟や妹が沢山いました。お母さんマリアと子どもたちだけの母子家庭です。そのような中でお父さんヨセフの代わりになって、一家を背負いました。大工として、材料を仕入れて、作り、商品を売り、あるいは家のリフォームの仕事をする。そうやってお金を稼いで、家族みんなが生活できるように大変だったんです。神様なのに、毎日の生活で苦労を重ねたんです。それで弟や妹たちが一応、自分のことは自分で出来るようになって、やっと「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一・一五)とイエス様は公の生涯を始めました。

そしてイエス様は、病気を治し、罪は赦されたと宣言なさり、そうやって福音を告げて、善いことを沢山したのに、それで妬まれてしまって、最後は十字架に付けられて死んでしまわれました。神様なのに、人間の死を御自分のものとして経験されました。

神様なのに死んでしまわれたその死は、ただ死なれたというのではありません。他の全ての人たちの罪を背負い、罪人として裁かれて「我が神、我が神、何故、私をお見捨てになったのですか」(マルコ一五・三四)と罪の裁きとしての死を担われたのでした。神様なのに裁かれたのです。が、それ以上に、これだけは神様だからこそお出来になりました。人には耐えられないことです。神様は罪の裁きとしての死に耐えられるように人間をお造りにはならなかったからです。そしてイエス様は私たちの代わりにこの死を担われました。それでこそインマヌエル=神が我らと共にいますなのです。

「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった」。お生まれになったというのは、このように、罪の裁きの死に至るまで、人間の全てを、救い主自ら御自分の事として経験なさり身に引き受けられた、ということです。それを聖書は「愛」と言います。

そこで、子どもたち、I love you. 日本語で言うとどういう意味だか解りますか? 私はあなたを愛しているよ、という意味です。ある説教集で知ったのですが、ある文学者がこれを「あなたのために死んでもいい」と訳したそうです。さすが文学者です。その人の名は二葉亭四迷。因みに、この名前は本名ではなく自分でつけた文学者としての名前ですが、これは父親から「てめえなんか、ふたばってしめー」と言われてつけた名前です。これは学校の国語の授業で習いました。ふたばる、国語辞典に載っていない。江戸の下町言葉でしょうか。「お前なんか、死んじまえ」ということです。

キリストは…、世界中の人たちから「てめえなんか、ふたばってしめー」と言われて十字架に付けられました。そして、それ以上に「あなたのために死んでもいい」と十字架にお掛りになりました。

ヘブライ人への手紙にこういう言葉があります。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助ける事がお出来になるのです」(二・一七)。「この大祭司は、私たちの弱さに同情出来ない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において私たちと同様に試練に遭われたのです」(四・一五)。これがこの手紙が語るクリスマスですね。人間の生まれ出ずる悩みや生まれてからの全てを担われ、そして人間にはおよそ忍耐できない、でも罪人の人間が負わねばならないはずの「神に見捨てられる死」、神様から「てめえなんか、ふたばってしめー」と罪の裁きを担わされ見捨てられる裁きの死をイエス様は担われました。でもそのお陰で、私たちは神様からそう言われることはなくなった。これが「あなたのために死んでもいい」、キリストの、I love you.です。

それでこの手紙は私たちに勧めます。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けを戴くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」…。他の者ではなくこの救い主から、憐れみと恵みと助けを戴いたらいいんだよ、と。

羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか」と話し合って、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を、あちらこちらとまわってやっと探し当て、見聞きしたことが天使の言った通りだったので、神様を賛美しました。東方の学者たちも遠くからベツレヘムにまで来て、黄金、乳香、没薬をささげて、主イエスを拝みました。恵みの座へとやって来た訳です。その時、彼らの心には「てめえなんか死んでしまえ」の自分中心の発想は全く無くなり、主を拝み賛美する想いが満ちました。私たち、大人も子どもも今日、この礼拝の恵みの座に導かれて来たのです。

トップページ
教会学校
各部会案内
婦人会 壮年会 青年会 シャロンの会 カレブの会