「神の細道」

森田恭一郎牧師

(マタイによる福音書 1:1~3)

待降節、今日も旧約聖書から、まずイザヤ書三五章の御言葉を味わいます。最初に三―四節「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」。歴史の不条理の中で心おののく人々には、敵を打ち悪に報いる神が来てあなたたちを救われるという御言葉は大きな希望です。でも、今日考えたいのは、人間を悪人と善人あるいは敵と味方に分けて、敵を打ち悪に報いて下さる神が来て下さるから希望だ、という読み方でいいのか…。

三五章は、終末の光景を描いていて、例えば一節も「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ」。イスラエルの民の状況を砂漠に重ね合わせながら、砂漠が一面の花畑になる。雨の少ない地域の人々にとっては、私たち日本人の思いを越えて一面の花畑は天国のような別世界なのでしょう。二節も「花を咲かせ。大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」。レバノンの栄光、レバノン杉が育つ所、カルメルとシャロンも緑豊かな場所です。「シャロンの花」はシャロンの地域に咲く花です。この幻想的な命安らぐ光景を思い浮かべながら、そのように「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」とイザヤは語ります。

実は三五章は三四章とセットです。三四章には「エドムの審判」の小見出し。エドムは死海の南東側になりますが、具体的にエドムの地名というより、諸々の国々の代表として記しています。三四章二節には「主はすべての国に向かって憤りを発し、怒りは、その全軍に及ぶ。主は絶滅することを定め、彼らを屠るために渡された」。五節ではその代表としてエドムの名前があって「天において我が剣は血に浸されている。見よ、剣はエドムの上に下る」…。三五章とは正反対の光景です。

二つの章を読む時、敵をせん滅して(三四章)イスラエルの民を救って下さる(三五章)、そういう神が来られる、という描き方をしている訳です。それで先程の三五章四節の後半も「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」と一見読める訳です。

そして、神が来てあなたたちを救われる、その時に起こることとは五節以下「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」。新約聖書で、洗礼者ヨハネが「来るべき方はあなたでしょうか」と問うた時に、主イエスがお答えになったのは、このイザヤ書の描く幻想的なファンタジーが現実なっているということです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私に躓かない人は幸いである」。主イエスはイザヤの描くファンタジーとご自分と共に起こっている出来事を重ねておられます。

すると主イエスの場合にはイザヤ書で言われた三四章の裁きの部分はどうなったのか? 再度、三五章四節の後半「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」。敵とか悪とかありますが、私たちがぶつかる問題は、敵にせよ悪にせよ、自分の中に悪があり自分が自分の敵になってしまうことがあるということです。しかもそれは滅多にないことであるよりは、胸に手を当てて誤魔化すことなくよく自分をみれば、むしろいつもそうだということです。ですから、もし神様が本当に敵をやっつけに来られたら、それは自分がやっつけられるという事です。そうであるならば、こちらへと神が来られる、その神を迎えるのは怖いことです。悔い改め無しには迎えられないことです。その上で、みたび、四節「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」。救って下さる!

何故、悪を抱えた私たちが救われ得るのか…。悪を見逃して下さるということか。でも悪が悪のまま放置されるなら、神の国の全き到来はない、天の国は来ないのと同じです。悪が残ったままで不条理も解決しません。それは御国ではなく、御国を来たらせ給えの主の祈りも無意味になります。御国が到来するためには、神様が悪に報いることは不可欠で、三四章があるのは意味があります。 それで思い起こすべきは、やはり、主イエスの十字架です。「敵を打ち、悪に報いる」出来事が起こった場所は、この十字架に於いてであると。故に「神は来て、あなたたちを救われる」訳です。

待降節、アドヴェント。この言葉はアドヴェンチャー=冒険と元は同じ言葉です。冒険というと、未知の世界に向かって果敢にチャレンジしていくアクティヴな姿勢を感じます。そこでアドヴェンチャーと重ねつつ改めてアドヴェントを考えると、それは静的でただ待っているだけの受け身の姿勢ではありません。かといってただチャレンジして出て行くというのでもなく…、向こう側から来るものに絡みついて行く姿勢だということです。

それで三五章四節も「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を」。対象に絡みつきじっと見据える前向きな感じがします。四〇章にもそのイメージと合う表現があり、九節後半「見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神」。ここもじっと見る。その神様は「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊を懐に抱きその母を導いて行かれる」。

ここに「御腕」の言葉が二回。「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」と「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め」です。ここでは「御手を以て」ではない。御腕という表現は、やはり力強い。先日、清教学園中学校でのペイジェントを観ました。マリアが幼子を腕に抱いている。腕は衣装に隠れていても、手と腕、しっかりと抱いている。ペイジェント全体、感動しましたが今回、私はあの幼子を抱くマリアの手と腕に、何故か力強さと安らぎを感じました。

神様は、この母親以上に御腕を以て群れを集め、小羊を懐に抱いて下さる。そして「御腕を以て統治される」のですから、統治には「敵を打ち、悪に報復する」という部分も伴っているでしょう。更に、その御腕は最終的にどこに現れたかというと、イザヤ書五三章一節「私たちの聞いたことを誰が信じ得ようか、主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか」…。この「御腕の力」は単なる腕力ではない。主の御腕の強さは、多くの痛みを負い、病を知り、私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの咎のために打ち砕かれることを、御自分の所に集め、私たちの代わりに担うことの出来る、そういう御腕の力強さです。言うまでもなく主イエスが負われた十字架です。ここに主の御腕の力が示された。

イザヤ書四〇章三節「主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」とあります。また三五章の八節にも「そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない」とあります。この道、この広い道、この大路を「主御自身がその民に先立って」歩みます。その道は、その後をその民がついて行くことが出来ます。でも「汚れた者がその道を通ることはない」、「愚か者がそこに迷い入ることはない」、その道は「聖なる道」ですから汚れた者は通れない。そうかもしれません。でも主イエス・キリストの十字架を思う時、それは排除される仕方で通れない道、入れない道なのではなく、主が十字架でその汚れと愚かさを代わりに負って下さるから、汚れた者の汚れも愚かな者の愚かさも取り除かれて、この道を汚れた者や愚かな者は通ることがないという事でしょう。単純に善人と悪人を分けて考えるのではありませんね。

洗礼者ヨハネは、「ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』」と言い、福音書は彼を、預言者イザヤが言った人として登場させます。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」。ただイザヤ書と大きな違いが一つあります。それはイザヤ書で、神がお通りになる「広い道、大路」は、福音書では「道筋」。辞書で引くと「けものみち」。広くないどころか、見つけ出すのも難しい位に細いけものみちです。成る程、主イエスがお通りになった、その拓いて下さった十字架という道は、まさか、こんな所を神の御子がお通りになるなんて、と誰もが見落とすような細い道です。

しかしその細い道は、主イエスがその御腕を以て集めて下さった群れに加えられ、懐に抱かれて、そこで信仰を以て見出すことが出来たなら、主イエスに贖われた者として誰もが主の後をついて行くことの出来る、細くても開かれた道なのです。

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